浄興寺の由緒
浄興寺は浄土真宗の宗祖親鸞聖人によって創設された寺院です。
聖人は承元元年(1207年)念仏禁止令により越後の国、国府(上越市)に流罪となられましたが、越後滞在七年の後、妻子と共に常陸国(茨城県)へ移られ、笠間郡稲田郷(笠間市稲田町)に稲田禅坊を開かれました。
聖人は農民や下層武士を主とする民衆に布教されるとともに、自己の信仰を深められ、真宗の根本聖典である教行信証を著されました。
そのお喜びのお気持ちを山号・寺号に顕され、この禅坊を歓喜踊躍山浄土真宗興行寺、略して浄興寺と名づけられました。
ときに元仁元年(1224年)本願寺の創建より48年前のことでした。
聖人は浄興寺とどまるところ十余年、京都へお帰りになり弘長二年(1262年)九十歳で入滅されました。
聖人の御頂骨ならびに遺宝物は御遺命に従い当山第二聖善性上人(後鳥羽天皇皇子)によって一宗開闢の地、稲田浄興寺に安置されました。
後に稲田浄興寺は戦火をうけて灰燼(かいじん)となり、寺領のある信濃国水内郡太田庄長沼へ移りました。
以後、およそ三百年長沼にありましたが永禄四年(1561年)川中島合戦の兵火をあびて堂宇炎上し、永禄十年(1567年)上杉謙信公の招きにより春日山城下に移り堂宇を建立し上杉家の紋章を拝領しました。
慶長十二年(1607年)上杉家会津移封のあとをうけた堀氏が福島(上越市古城)に築城すると福島城下へ転じ、さらに松平忠輝公の高田築城と共に高田へ移り、寛文五年(1665年)の地震により堂宇崩壊したので、時の藩主松平光長公の市街復興計画に従い現在の地に堂宇建立し三百有余年の年月を経て、現在に至ります。
尚、平成元年には本堂が国の重要文化財に指定されました。
浄興寺の沿革
承元元年 (1207年) | 法然とともに念仏教団の弾圧うけ、京都から越後国の国府(現在の新潟県上越市)に配流。竹之内草庵(現在の五智国分寺)に住む。 |
建暦元年 (1211年) | 流罪赦免。越後国府に留まる。 |
建保2年 (1214年) | 常陸 笠間郡稲田郷(現在の茨城県 笠間市)の領主、宇都宮瀬綱らの招きに応じて同地に稲田草庵を開く。 |
元仁元年 (1224年) | 『教行信証』を完成させた親鸞は浄土真宗の立宗を喜び、稲田草庵の寺号を歓喜踊躍山浄土真宗興行寺と改める。 |
嘉禎元年 (1235年) | 親鸞は京 に戻るにあたって弟子の善性に仏法二十一箇条の掟と浄興寺の山額を与え、住職を譲る。 |
弘長2年 (1262年) | 親鸞死去。遺命により遺骨と遺品を善性に託し、浄興寺に納める。 |
弘長3年 (1263年) | 小田泰知の乱により伽藍を焼失。常陸板敷山(現在の茨城県石岡市)大覚寺に移る。 |
文永2年 (1265年) | 火災により再び焼失。常陸磯辺村(現在の茨城県常陸太田市)に移る。 |
文永4年 (1267年) | 信濃長沼(現在の長野県長野市)に移る。 |
文明11年 (1479年) | 本願寺8世蓮如が浄興寺を参詣する。 |
永禄4年 (1561年) | 川中島合戦の兵火により焼失。13世住職周円は焼死。小市村(現在の長野市安茂里)に避難する。後に上杉謙信の庇護により信濃別府(現在の長野県須坂市)に移る。 |
永禄10年 (1567年) | 上杉謙信の招きにより越後春日山(現在の新潟県上越市)に移る。 |
文禄元年 (1592年) | 親鸞の頂骨を本願寺(現在の西本願寺)に分骨する。 |
慶長4年 (1599年) | 本願寺の東西分派に際して東本願寺に組する。東本願寺より「同格一門」の待遇を受ける。後に「中本山」の格式を認められる。 |
万治3年 (1660年) | 親鸞の頂骨、本願寺3世覚如以下七代の門主の遺骨を東本願寺に分骨する。 |
元文2年頃 (1737年) | 寛文5年(1665年)の地震後、高田城下復興の際、現在地に再建。 |
明治9年 (1876年) | 真宗四派による「宗規綱領」によって「中本山」の格式を否定される。 |
明治13年 (1880年) | 新潟県令に別派独立の請願を提出する。以後、独立運動が継続される。 |
明治21年 (1888年) | 親鸞の頂骨と歴代本願寺門主の遺骨を納める本廟を創建する。 |
昭和27年 (1952年) | 宗教法人法 の施行により東本願寺からの独立が達成される。 |
親鸞聖人ゆかりの旧跡
念仏停止の法難により越後に配流された宗祖聖人。聖人は居多ヶ浜から上陸され、国府(直江津)で七年お暮らしになりました。直江津には、竹之内草庵(現在の五智国分寺)のほか、聖人ゆかりの名所旧跡が点在します。
従来、北国越後への流罪ということで、暗く寂しい生活を送られていたという印象が強かったように思われます。しかし、最近の研究によると、聖人の叔父(日野宗業)は越後権介の地位にあったことから、文化的・経済的に厚い保護を受けていた、という説が唱えられています。厳しい気候条件の中でも、聖人はこの地で師、法然上人の教えを受け継ぎつつ、浄土教の研究に勤しみ、思案を深化されたのです。
また、聖人の著書に「海」のつく言葉が数多く散見されます。たとえば、『正信偈』の「唯説弥陀本願海」「五濁悪時群生海」等であり、『教行信証』(信巻)に「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」の有名な一文等です。聖人が、生涯において海に接する暮らしはここ越後国府のみであることからも、越後の海は、聖人の思想的形成に大きな影響を与えました。浄土真宗開宗の礎が、この越後で培われ、育まれたといっても過言ではありません。
居多ヶ先に「念仏発祥の地」の碑が建立されている所以です。
居多ヶ浜
五智国分寺
竹之内草庵